カイザー日記

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2009年 02月 26日

桜井ツアー~第一章・綱敷天満宮~

バリブロ会企画 桜井ツアーは、綱敷天満宮から始まりました。


天満神社とは、菅原道真を祀った神社です。
なお、道真が学者で詩歌に優れたことから、天満神社は「学問の神様」としても有名です。




菅原道真は元々学者の家系に生まれ、宇多天皇から醍醐天皇の時代に活躍し、
特に宇多天皇(その後上皇)に重用され右大臣にまで昇進した政治家です。
有名な事柄として、弱体化した中国・唐への遣唐使の廃止などを行いましたが、
政敵であった当時の左大臣・藤原時平の陰謀によって、九州・大宰府へ左遷され、
まもなく失意のうちに亡くなりました。


道真が亡くなった後、藤原時平一族(皇族も含む)が病のため亡くなり、
京では疫病や天変地異が続き、清涼殿に雷が落ちて死者が出るなどしました。

これを朝廷は菅原道真の祟りと恐れ、京都・北野へ天満宮を造営したのが起源とあり、
道真は天神様として信仰されます。
そして、この天神信仰は全国へ広がるようになり、現在、天満神社は全国に1万あまり
あると言われています。



その中でも綱敷天満宮は、道真が九州への左遷中に時化による避難などで立ち寄った際、
地元の村人(または漁師)が船具の綱を丸く巻き、敷物の代わりにしたことが由来となっています。

ちなみに、同様な由来から名付けられた綱敷天満宮は、今治の他にも、大阪、神戸、福岡にも
あるようです。




そのうちのひとつ(ここではそう言っておきます!)、今治桜井の綱敷天満宮では、
この日、観梅会が開かれており、周辺では梅を観に来た大勢の人が参道を行き来しています。



今治にある他の天満神社と違い、ここほど立派な境内は無い!とガイドの大成ケイボンさん。
辺りを見ると、ところどころに、立派な社殿、灯篭、絵馬堂、鳥居などがあります。

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なぜ、桜井にある天満宮だけがこのような立派な境内になり得たのでしょうか?





それを説明するためには、まず江戸時代初期にまでさかのぼります。




関ヶ原合戦で徳川方についた藤堂高虎と加藤嘉明は、勝利した功績によって
伊予国を半分ずつ与えられました。

まず、藤堂高虎は伊予今治20万石に加増され、国分山城を居城にしましたが、
国分山城では統治が困難であるため、新たに今治城を築城します。

もう一方の加藤嘉明は伊予松山20万石に加増され、松山城を築城します。

この2人の仲はかなり悪かったと言われており、両藩は互いに牽制していたようですが、
両者とも、城が完成する前に、さらに加増され他の土地へ転封しています。



この両者が離れた後に伊予国に入国したのが、久松松平氏です。
久松松平氏は徳川家康の異父弟の家系であり、松山藩15万石を松平(久松)定行、
今治藩3万石を松平(久松)定房の兄弟(家康のおい)が統治するようになりました。


久松氏の本姓が菅原氏ということもあり、両藩の天満宮は藩からの庇護を受けます。
梅鉢紋は天満宮の神紋であるとともに、久松松平氏の家紋でもありますので、
神社内の建築物には、ところどころに梅鉢紋、そして、庭には梅の木がたくさん植えられ、
梅の名所となっています。

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その後、明和2 (1765)年、それまで松山藩領であった桜井は、松山藩の支藩である
松山新田(しんでん)藩の消滅によって、天領への編入が決まります。
編入されたのは、越智郡8か村と桑村郡の10か村を合わせた1万石でした。

これによって、越智・桑村両郡合わせた1万石の陣屋が桜井の地に置かれ、
年貢米や物資の集散地となり、また、藩よりも規制に対して緩やかだった天領・桜井は
一躍経済特区の役割を担うようになりました。
そして、この経済特区に船が集まってくるようになります。



元来、この地域は、村上海賊衆や来島氏に見られるように廻船活動が盛んでした。
それらの後裔達がこの経済特区を拠点に再び活躍を始めるようになりました。



江戸時代後期になると、桜井商人は得意の廻船力で、紀州黒江(和歌山県海南市)の
漆器と、肥前伊万里(佐賀県伊万里市)の陶器を輸送・販売するようになります。


黒江漆器といえば、当時、御三家の一つである紀州徳川家の保護を受け発展している産業で、
おもに江戸や上方を中心に出荷されていましたが、桜井商人はそれまで未開拓地域であった
西日本に注目し、廻船力を駆使し、船を倉庫代わりにして、現地では船員が売り子として
行商するようになりました。
そして、カラになった船には肥前伊万里陶器を積み、黒江へ向かう途中で販売しています。


このような船は、椀・膳・盆などの漆器を載せたので、椀舟と呼ばれました。



こうして、黒江漆器の西国方面の販売をほぼ独占し、莫大な富を作り上げた桜井商人
(椀舟船主)たちは、綱敷天満宮にさまざまなものを寄進するようになりました。



文政4(1821)年に廻船問屋の柳瀬吉富が建立した石造燈明台が今も残っていますし、
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絵馬堂には、地元を代表する絵師である山本雲渓の大きな絵馬が展示されています。


また、社殿の前には、伊万里陶器屋仲間などから寄進された石造灯篭一対があり、
桜井の廻船問屋と黒江・伊万里の豪商との繋がりの深さが感じ取れます。

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3メートルはあろうかという大きな灯篭です。



この後は、椀舟の基地であった港や江戸時代末期に築かれた台場、
そして、元祖・綱敷天満宮へと向かいます。


次の更新をお楽しみに。



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by shinya-ue | 2009-02-26 00:58 | 日記


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