カイザー日記

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2011年 12月 03日

八杉康夫氏講演会 私の原点「戦艦大和」~重油の海から~

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11月27日、日曜日、晴れ時々曇り。
ついにこの日がやってきました。
八杉康夫氏講演会 私の原点「戦艦大和」~重油の海から~_b0146414_223813.jpg

僕のような一介の聴衆者でさえこの日が待ち遠しかった。
「八杉康夫さんって誰?」
たぶんそれが普通の意見なのだろうし、日本全国津々浦々でこの方のお名前が知れ
渡っているとは言えないかもしれない。
しかし、有名なだけでは済ませられない貴重さってあるよね?
たとえキムタクや福山雅治がいなくなっても、きっと誰か代わりは出てくると思うんだけど。
でも、この人の代わりはそうそう居るもんじゃない。
というより、代わりになる人がいないと言ってもいいんじゃないだろうか。


今言った言葉は、けっして大袈裟な事ではない。
事実を述べたまでなのです。


時は昭和20年春、第二次世界大戦(太平洋戦争)終盤。
八杉さんは、念願だった世界最大級の戦艦「大和」に乗り込みましたが、一億総特攻の
魁となるべく沖縄に向かっていた途中で米軍の攻撃に遭い、沈没した戦艦大和とともに
海にのみ込まれたが奇跡的に生還出来た方です。

講演の前半は、海軍に入隊し、大和に乗るところまでを話されました。
八杉康夫氏講演会 私の原点「戦艦大和」~重油の海から~_b0146414_8353755.jpg

15歳で海軍に入隊。
陸軍よりも海軍を選んだのは、海軍兵とすれ違った時に香ってきたオーデコロンの匂い。
汗臭い陸軍兵よりも海軍兵の方がカッコいいと思ったのだそうです。
17歳で戦艦大和に乗艦。
戦艦大和に乗れる人は、成績が常に1番か2番でないと選ばれない。
そのようにして選ばれたエリート集団。
八杉さんは優秀な成績によって憧れだった大和に乗艦することができ、与えられた任務は
艦橋のてっぺん。主砲を撃つために敵との距離を測るのが役目だった。
八杉康夫氏講演会 私の原点「戦艦大和」~重油の海から~_b0146414_951738.jpg

八杉さんが写真パネルを使って最初にタラップの位置を指し、「ここから乗りこんで自分の
任務地がどこなのかと思いましたら、ここでした。」と艦橋のてっぺんを指した時に一瞬
会場がどっと沸きました。

足下に司令長官をはじめ、この戦艦の頭脳が集まっている場所。
そのような重要な場所に若干17歳の若者が配属されるということで、年長の兵士からいじめ
られるのではないかと怖れていたらしいのですが、逆にみんなから祝福を受けたそうです。
「お国の為に死ね!」と言われたこともなく、たとえ年少でも優秀な者には尊敬の念を持ち
「八杉に負けないよう頑張れ!」とみんなを鼓舞する上官。
キッカケはオシャレなイメージから入隊したそうですが、本当に海軍を選んで良かったと
言われていました。
人生において多感な時期と言われる15歳から18歳の間を海軍で過ごせたことが、その後の
人生に大きく影響していると。その間ずっと厳しくも温かい良い上官に恵まれたんだろう
と、話を聴きながら想像できました。
わずか2年半の短い間でしたが海軍で学んだ精神を、八杉さんは「ネイバルスピリット」と
言っていました。84歳になられた今でも、きちんとした身なりと、スマートに見える立ち姿。
本当にドクターストップをかけられて、講演終了後に入院を予定されている方の姿なのかと
疑問に感じてしまうほどでした。そういう教育は一生体が覚えているのでしょうね。


そして後半は戦艦大和が沖縄へ向けて特攻作戦を実行する姿と、アメリカ軍の攻撃を受けて
沈没し、八杉さんが救助されるまでを語っています。
凄惨な戦闘の話については、時間の都合なのかそれほど語られることはありませんでしたが、
一時的に上陸する機会を与えられた時に、分隊士の心遣いで母親と会えてきちんと別れが
言えたこととか、作戦前日に船内で酒宴が行われ飲んだことない酒を飲んだ思い出とか、
みんなが一斉にトイレへ行った時、トイレから出てきた先輩たちの目が真っ赤になってた、
トイレの中で泣いてたんです。そういう記憶が次から次へと出てきました。
目の前で割腹自殺をした上官や、目の前から戦艦大和が沈んだ方角に進み波間に消えていっ
た上官を姿を説明されていました。
そのようにお世話になった方々を救うことが出来なかったことや、自分だけが生き残ったと
いう思いがずっと心を苦しめていたと言いながら、言葉がやや詰まりそうになる場面も。

おそらく「自分で生き残った」ではなく、「沢山の人達から生かせてもらった」という感謝
の気持ちなのだろうと思います。
そして、生かせてもらった八杉さんは、戦争で死んでいった人達の記憶を語り、後世にまで
残してあげるのが自分の役目だと思ってるのではないか、と勝手に思いました。

講演時間がほとんど無い中、これだけは言わせて欲しいとのことで、若者へのメッセージと
して(だと思っているのですが)、自分が生きて(生かされて)いる意味を考えて欲しいと
言われました。
様々な障害により周りにも相談できず一人寂しく自殺している現代の若者を見て、戦争によ
って、生きたくても生きられなかった若者が沢山いたんだと熱弁されました。

そして最後に「これからの日本をお願いします」と。
自分の役目はこれで終わった。後は皆さんにお任せしますと、まるで遺言のようにも聞こえ
ました。
およそ2時間の講演において、八杉さんも聴いている側も真剣な姿でした。
これほど真剣勝負かつ興味深い講演会に参加したのは初めてでした。
おそらくですが、そのような会場の雰囲気が、2時間ずっと立ちっぱなしでもまだ元気な気力
を維持できていた要因ではないかと想像しました。
たぶん時間がいつまででも取れたのであれば、まだまだ話したい事が沢山あったのだと思います。


家に帰り数日後、久しぶりに映画「男たちの大和」を観たくなりました。
この映画には八杉さんも水兵所作の指導をされていたそうです。(エンドロールにも名前あり)
その中でもやはり「死んだらいかん」という言葉が多く出ています。
戦争で死ぬことが男の本懐という戦時中の教育と反して、八杉さんの言う海軍では死ねとは
言わない。しかし、自己の責任を感じて戦艦大和と共に海に沈んだ人はたくさんいたのでしょう。

長渕剛の歌が超大好きという訳ではありませんが、映画と妙にピッタリと合っていて聴いています。



僕らも生かされている意味をじっくり考え、自分に何が出来て、誰かの為になるかどうかを
しっかり考える時期に来ていますね。
数日後、大成ケイボンさんへメールで「今治でも八杉先生の講演会出来たらいいのに。」
って書いて送ったら、来年は無理だけど二年後だったらどうだろう?八杉先生の具合次第
で可能性はありますよ、ですって。
戦艦大和最後の語り部“八杉康夫”様、どうかいつまでもお元気でいてくださいね。



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by shinya-ue | 2011-12-03 10:19 | 日記


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