カイザー日記

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2010年 11月 01日

大成ケイボンさんガイド☆桜井ツアー(2)

今治の綱敷天満宮って実は二つあるってこと、今治市民でもあまり知られていないようです。
でも、地元桜井に住んでる方だったら知っているようで、、、知らないかも?


主に周知されている方の綱敷天満神社が『新天神』と呼ばれ、もう一つのあまり知られて
いない古国分神社とか古天神社と呼ばれている方が『古天神』なのです。
まず最初のミステリーは、二つの綱敷天満神社が何故誕生したか?ということから始まり
ました。



その理由は主に、現・桜井地区の江戸時代における領地割から来ていることと、当時の
古天神の不祥事によるものです。

まず一つ目の領地割りについてですが、関ヶ原合戦以前、桜井地区って古くは伊予国府
があった場所といわれており国分山城の城下町でした。
関ヶ原合戦時の城主は小川祐忠。彼は秀吉直参の武将で関ヶ原開戦時は西軍について
いました。
しかし、小早川秀秋の寝返りとともに東軍へ寝返ったのですけど改易。彼の領地は戦後、
東軍で活躍した藤堂高虎(今治藩)と加藤嘉明(松山藩)の二人に分けられました。
藤堂高虎が国分山城での領地運営を良しとせず今治城築城に至ったのは、江戸幕府が
開かれ安定した時代に、山城は不向きだったという説は伝えられていますが、他領と
2つに割られた城下町では領地運営が出来なかったという説はあまり知られていないの
ではないかと思います。
数年間の藤堂家と加藤家の緊迫した関係ののち、両家は互いに伊予国から他領へ転封と
なり、その後、松山藩と今治藩は、家康のおいである松平(久松)定行・定房兄弟が
大名として入ります。
そのため、彼ら久松氏の祖である菅原道真が祀られている綱敷天満神社は庇護を受ける
ようになりました。
神社にある梅鉢紋は菅原家の家紋であり、また、久松家の家紋も菅原家が祖ということ
で梅鉢紋という巡り合わせは面白いところです。

しかし、その後1713年に神前に魚を供えたことが別当国分寺との争論となり、1719年
まで宮出しが禁止されてしまいました。そのため、桜井村と旦村の氏子は松山藩に
天満宮造成を願い、今の綱敷天満神社(新天神)が誕生したというのが二つ目の理由です。

1765年以降、桜井村など6村は幕府直轄の天領となります。
その結果、この地域が物資の集積地となり栄え、桜井商人や彼らが関わっていた各地の
商人から新天神へ寄進が増えていったことにより、圧倒的大差で新天神の規模が大きく
なっていきました。


新天神
大成ケイボンさんガイド☆桜井ツアー(2)_b0146414_3153140.jpg


古天神
大成ケイボンさんガイド☆桜井ツアー(2)_b0146414_3161071.jpg



現在では規模の違いはあれ、境内にはともに家紋でもある梅の木が植えられ、
菅原道真公が亡くなったといわれる2月下旬頃には花が咲き誇り、梅の花の香りが辺り
一面に広がっています。


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by shinya-ue | 2010-11-01 03:23 | 歴史遺産


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